
次は『大神』を扱おうと思う。だが、本題に入る前に、前編としていささか長めの「方法論」的な話を書いておくことにしたい。今までは読者に負担をかけるだろうと思って遠慮してきたのだけれど、読んでくださった方々の反応を見ていて、そろそろ明示して説明しておいたほうが親切だろうと考えるようになってきた。
ゲームに関する批評はちょうど、東浩紀編集の批評雑誌『ゲンロン』のゲーム特集や、『SFマガジン』のゲーム特集などが刊行され、議論が盛り上がり、積み重ねられている最中だ。本連載もほんの少しながらそれに資することができればと考えている。
さて、本連載が、「SF」にフォーカスしながら「ゲーム」を語ることの狙いについては何回か記してきたので、今回は、「ゲーム」を「評論」するために本連載がどのような方法論を採っているのか、その考えを読者の皆さんに伝えておくことにしたい。
ゲームそれ自体を評論するために――先行研究
「ゲーム」を評論すべきだと思っていた。美術のためや文学のためや思想のために役立たせるやめではなく、ゲームそれ自体を文化として芸術として尊重するがために、ゲームをゲームとして論じる必要があると思ってきた。少なくとも文芸評論や映画批評と同じぐらいの水準でゲームも「批評」されるべきだ、それがその文化に対する真っ当な敬意だろう、と考えてきた。そしてそれを行うための媒体や方法論を探してきた。
ゲームについての「評論」や「研究」はこれまでそれほど多くは書かれてきていない。日本では2010年代に入って大きく盛り上がってきた。それらの著作に刺激を受けながらも、個人的にはどうも不満があった。不満と言っても、それらの評論や研究を非難するとか、貶すつもりではない。「ゲーム」という作品の、作品論や表現論が圧倒的に足りない、と思ったのだ。
いくつか、これまでに日本で書かれたゲーム評論を見ていくことにする。
日本において先駆的なゲーム論は、中沢新一によって書かれた『ゼビウス』論である「ゲームフリークはバグと戯れる」という評論が有名だ。中沢の『ポケモン』論『ポケットの中の野生』もそうだが、これは現代のテクノロジーによる遊びを行う子供たちの心にある、神話的・宗教的な完成を分析するものである。これらの批評は説得力があり、斬新であった。
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